あかい星

 大規模な市街戦の直後だというのに、デアドラの港には奇妙な穏やかさが充満していた。波音だけが響く港の奥の一角で、負傷者の手当てや戦闘後の跡片付けといった各種の雑事が的確に、かつ静かに進められていく。この数年間ともに戦ってきた馴染みの兵士たちはみな、ひとりで呆けている盟主様には目もくれず(いや、目が合えば目礼と疲れたような笑みはくれるのだが)テキパキと動き続けている。
 市街のほうへと目をやると、青空をバックに青い軍旗が優雅にはためいているのが見えた。その下では、見知らぬ顔の王国軍の兵士たちが大勢、こちらと同じようにせわしなく動き回っている。彼らは笑顔だ。口々に何かを話しては笑いあって、その声はここにまで薄く聞こえてくる。戦勝への喜びと、戦闘による高揚感と、緊張が切れたことによる妙なハイテンションと。ここからだとさながら舞台上の喜劇の一幕のようだ。もしくは、早けりゃ来年にでも上演される歴史歌劇の一幕か。
「そんな顔してると真面目な盟主様みたいだねー」
 振り返ると、ヒルダがゆるい笑顔を浮かべてすぐそばに立っていた。
「真面目な盟主様なら忙しい部下たちを手伝ってるんじゃないか?」
「うわ、それってあたしへの嫌味ー? 今は休憩中! ていうか、やることももうそんなにないから大丈夫だってばー。気にしなくって平気だよ」
 相変わらずの調子だ。静かな港に、ヒルダの間延びした声がよく響く。
「ねー、あたし、言われた通りにちゃんと橋守れたでしょー?」
「ああ。正直、助かったよ。なにせこの怪我もイマイチ治りきってないもんで。戦闘じゃあ世話になりっぱなしな気がするな」
「あたしとしたことが、クロードくんのあまりの頼りなさについねー」
 ヒルダはけらけらと笑って、横目で俺を見た。苦笑いを返すと、彼女はふっと目を伏せて、それから薄い笑顔を浮かべた。
 黙って仕事をこなし続けている兵士たちにも、俺たちの会話は聞こえているだろう。数人の部下に指示を飛ばしているジュディットの背中も視界の端に見えている。ヒルダとジュディットも含め、この港に残っている兵士たちは俺の護衛の小隊の者だけだ。この戦闘の後に訪れる結末を知った上で、彼らはみな俺のそばで、俺の予想通り救援が来ることを信じて、最後まで戦い抜いてくれたのだ。
「クロードくん、あのさ。……昔言ってたでしょ、俺の腹の内がどうのこうのーって。最後だし、なんだったのか聞いてもいい?」
「ああ、」反射的に相槌を打ってから、俺は続く言葉が見つからないことに気が付いた。体中の血液が凝固し尽くしたかのように、心臓が脈打つ行き場のない痛みだけがきこえる。開いたまま固まった唇の端をどうにかこうにか引き上げて、俺は腹の底から汲み上げた言葉をゆっくりと吐き出した。
「いや、あれはもう……いいんだ。なんでもない。忘れてくれ」
 喉から出たのは溜め息のような声だけだったが、ヒルダは微笑んだままだった。
「そう? ホントに?」
「ああ。本当に。残念ながらお前に聞かせたい話じゃなくなっちまった」
 見たかったはずの景色の代わりに、二度と見ることのない顔が、いくつもいくつも思い浮かんだ。脳裏の彼らはなぜかみんな制服姿で、五年前に俺が見ていたままの表情をそれぞれに浮かべていた。湿気た海風が吹く中で、波間の向こうにデアドラの領民たちを満載した避難船が揺れている。砂粒のように見える市民たちはみな、きっと帝国軍撃破の報に喜びと安堵の笑みを浮かべていることだろう。
「そっかー。ざーんねん」
 守るべきものを誤ったとは思えない。だが、同盟に掲げられる正義だとか大義だとかが確かに存在しなかったことは、盟主たる俺の責任なのだろう。
「今までありがとな、ヒルダ」
 皇帝も国王も、自らの理想を人々と共有することで戦争をしている。わかりやすくて、壮大で、正しい夢をみせてくれる。その夢のもとに、命を賭して血を流し人を殺すことができる夢。
「どーいたしまして、クロードくん」
 市街の東門のほうから一際大きな歓声が聞こえてきた。視線を向けると、整列した兵士たちの間から、金髪の大柄な男が歩いてくるのが遠くに見えた。
 堂々たる長身の後ろから、明るい翠の髪がちらちらと揺れている。二人ともまだ俺たちには気が付いていないようだ。霧の立ち込めたグロンダーズでははっきりと捉えることもかなわなかった二人が、俺の視線の先で、港の最奥へと繋がる橋をゆっくりと歩いてきて、立ち止まった。
 隣のヒルダが静かに動いて、事後処理の兵士たちの中に消えるように混ざってゆく。その小さな背中を無言で見送って、俺は深呼吸をひとつ。思ったよりも浅い呼吸を、しかしそれ以上どうする術もなく、俺は立ち話を始めた国王とその側近のほうへと歩み寄った。
 これが、レスター諸侯同盟の最後の盟主としての最後の仕事だ。
「ひとまず勝利を喜ぼう」
 翠の髪を揺らして、落ち着いた声で彼女はディミトリへと笑いかける。元傭兵で元教師の小柄な姿は五年前に見ていたそれと何ら変わるところもなく、あの日のままに鮮やかに異彩を放っている。先日の乱戦では見境なく迸っていたディミトリの殺気も、予想通りすっかり鳴りを潜めているようだった。
 五年前に一度死んだはずの彼らの前で、死に体の盟主様には一体どんな表情が相応しいのだろうか。とうとう七年前からの走馬灯が巡りだした頭の中とは裏腹に、俺の頬は染み付いた笑顔を上手に浮かべてくれた。
「そうそう、先生の言う通りだ。肩の力を抜いていこうぜ」
 なんの覚悟も決まらないまま、軽口が喉から滑り出ていた。
 ディミトリが律儀で素直な言葉をくれて、隣の先生が言葉足らずな変化球をくれる。五年ぶりにまともに会話した同級生と先生は、五年前よりもずっと血の通った、人の好い笑顔と言葉を手渡してくれた。先生ならディミトリを立ち返らせてくれる。ディミトリなら先生の檄に応えてくれる。二人の腕と器を見込んだ俺の目は、まだ節穴ではなかったということだ。
「お前なら自分のことなんて二の次で、駆けつけてくれると思ってたよ」
「よくわかっている」
 先生が頷いてわずかに笑う。嬉しそうに見える。切り札代わりに信じてしまえるほどに俺が二人を見ていたのは、隣の学級の級長とその担任教師をずっと横目で追っていたのは、こんな日のためでは決してなかったはずなのだが。脳裏の走馬灯はガルグ=マクでの毎日ばかりを無作為に映し出し続けている。口角を上げておくための力がずるずる抜けてゆく。背に負ったフェイルノートの飾り骨が俺だけに聞こえる音量でカタカタと笑う。
「得がなきゃ動かない俺とは違う。お前らは昔からそうだった」
 そういう正しさが俺の手にもあれば、もう少しましな結末だったのだろうか。俺やヒルダみたいな類いの人間にしかみえない曖昧ななにかじゃあ、ご立派な軍旗なんかできやしない。そんなことはわかっていて、だからこそ盟主様として同盟内に湧き出る不満と悲鳴にひたすら対処し続けてきたつもりだった。それがいくらかはあたたかい実を結んだことは、事後処理を進めながらも遠巻きにこっちを伺っている兵士たちが証明してくれている。
「わかってるわかってる。それも、今日限りだよ」
 同盟軍の兵士たちが一瞬動きを止めたのが、なんとなくわかった。
「ほら、こいつをやる。あんたらのために役立ててくれ」
 背中のフェイルノートをそっと下ろし、ディミトリに手渡す。フェルディアに使者を送った日から、ずっと頭の中で繰り返してきた動作だ。
 リーガン家に代々受け継がれてきた英雄の遺産は、目の前の男の手の中で、その赤い明滅を静かにやめた。血まみれの兵士がゆるやかに息を引き取る様に似ていた。そのご大層な弓を手にしたのはたった四年前のことに過ぎないのに、それが自分以外の人間の手にあるのを見ていると――ディミトリの手にあるのを見ていると、まるで心臓が俺の体から引き離されてよその国の赤の他人の手に渡ったかのような気分がしてくる。
「冗談なんかじゃあない。今日でレスター諸侯同盟は解散する」
 穴の開いた左胸から血が滴りでもしてくれればわかりやすかったのだろうが、せいぜい声が僅かに震えたに過ぎなかった。たぶん俺はもう、うまく笑えてもいないだろう。だが目の前の二人がそんなことに気付くはずがない。民と神様みんなが愛する正しさとは、こういうかたちのものなのだろうと、俺は思う。
「後は俺が、盟主の座を降りるのみだ」
 クロード、と落ち着いた声が俺の名前を呼んだ。十七のころに聞いていたのとは違う、慈愛の溶けたやさしい声だった。
「軍に加わらないか」
 先生が、俺の目を見てそう言った。
 いつの間にか変わっていた髪の色と、お揃いの明るい翠色の瞳。ネメシスと同じ紋章を宿しながら、女神の啓示が下ると大司教殿に言わしめた人。出自も年齢も曖昧。なにもかもがわからない人だった。ただ、彼女がフォドラの誰とも違う特別な人間であることは、あの時大修道院にいた誰しもがわかっていた。そして俺がフォドラの誰とも違うただの人間であることは、誰にもさわれない俺の腹の底に今も深く沈んだままだ。
(あんたがディミトリじゃなくて俺を――)
 回っていた走馬灯が、誰にもきこえない大きな音を立てて止まる。
 彼女は続く言葉もなく俺をじっと見ている。つられたように、隣のディミトリも俺を見た。その左目にはなんとなく戸惑ったような色が浮かんでいる。わかりやすくて正しい青だ。
「いやいや勘弁してくれよ」
 なあ先生、あんたの夢はなんだった? 俺の夢はさ、わかりにくくて、個人的で、正しいかどうかもわからない、俺の血の色をした夢だったんだ。
 フォドラを出る、とだけ言えば充分だったのに、喉から腹からあふれてくる正しさのない言葉を、俺はもう飲みこもうとするふりさえもできなかった。同盟が想像よりも重かっただとか、生者も死者も誰も俺のことなんぞ考えてくれないだとか、そんなことは生まれた時から王国の未来を背負い死者にまみれてきたディミトリのほうこそがよくよく知っていることで、これは助言でも何でもない、ただの負け犬の八つ当たりだ。
「クロード……」
 ディミトリは先生の隣で、感情に満ちた声で俺の名を呼ぶ。先生は、ディミトリからそっとフェイルノートを受け取って、何も言わずにそれを見ていた。彼女が何を思っていたのか、五年ぶりに再会したに過ぎない俺には、推し量ることはできなかった。
 遺産を失ったリーガンの血は、フォドラを出れば何の役にも立ちはしない。今度は母さんじゃなく俺自身の姿を持って、正しく臆病者の血になるだけだ。
 そしてその遺産も、きっと何の役にも立たない。リーガンの紋章を持つ人間は、もうフォドラにはいないからだ。適合する紋章を持たない人間が英雄の遺産を使えばどうなるか――だがほら、なあ先生。わかりやすくて壮大で正しい夢のもとに振るえば、俺の心臓も正しく動いてくれるかもしれないだろ。俺が何を知っていようがいまいが、あんたらが気付くこともないだろうしさ。

あかい星(黄色in青ルート)
周回ベレス先生はE:星竜の証だから大丈夫…大丈夫…
2020.01.18.