チョコレートの合鍵

 狭い部屋だ。安っぽい作りの扉を開けて、猫の額ほどの簡素な玄関に立つたびに、そう思う。
 壁に手を這わせてスイッチを入れると、若干の時間差を置いて天井の照明が点いた。家主不在のがらんどうの部屋は、最後に見た時とさして変わらず、そこかしこに物が散らばっていて、いかにも雑然としていた。住人の性格がそのまま部屋に投影されたような、無秩序で、あけすけで、生活というものの濃い匂いがする部屋だ。
 靴を脱いで数歩歩くだけで、1LDKの居間の真ん中に辿り着く。テーブルに置きっぱなしのペットボトルは飲みかけで、蓋さえ閉められていない。その隣にはコンビニパンの空き袋らしきものがひしゃげたかたちで放置されている。目を落とせば油の染み、散らばった屑、大袈裟な煽りがつけられたカレーパンのラベル。慌ただしい今朝の様子がありありと浮かぶ。
 軽く溜息を吐き、持ってきた手提げ袋をテーブル端のまだしも小綺麗なスペースに載せた。上着を脱いで鞄とともにソファの隅に放る。テーブル上の目立つゴミを手近なゴミ箱に手早く放り込み、クッションの影に転がっていたペットボトルの蓋で清涼飲料水に封をする。一瞬考えてから、ダイニングの冷蔵庫へと戻しておいた。相変わらず冷蔵庫の中は小学生の玩具箱のような有様だったが、面倒なので見なかったことにしておく。
 それなりに片付いたテーブルの上で、持参してきた袋の中身をようやく広げることができた。紙袋から我先にと転がり出てきたカラフルな個包装の菓子が、蛍光灯の光を反射してきらきらと揺れる。両手ですくって少しあふれるくらいの量の、俺の気に入りのチョコレート。
「……」
 シャツの胸ポケットから、数分前に使ったばかりのこの部屋の鍵を慎重に引き出して、テーブルの縁へそっと寝かせた。かぶせた指の隙間から、木と金属のぶつかる音が薄く響いた。
 どこぞのチェーン店で複製されたままの剥き出しの鍵は飾り気もなく鉄臭く、本来ならキーケースなりキーカバーなりと、安全な場所で大事に保管すべきものだったのだろう。だが、ライトブラウンの木目の上で鈍く光るその鍵は、俺の鞄の中のキーケースへと綴じ込むには、あまりに異質なものに思えてならなかった。代々受け継がれてきた伯爵邸の鍵は言わずもがな、この国での俺の借家の鍵でさえこれよりは数段立派なあつらえをしている。使い込んできた革のキーケースは年月を吸ってどこか居丈高で、そこに居並ぶ鍵束が閉ざしているのは古びた屋敷の重い扉とここから遠い国の怜悧な空気ばかりでしかない。さしたる理由もなく軽々と渡された合鍵に、似合いの場所が見つかることはついぞなかった。当たり前と言えば当たり前だ。目の前の小さな鍵は、この狭い部屋に満ちる一人の人間の生活の熱を守るためのものなのだ。
 右手を伸ばして、チョコレートの山の下へとその鍵を滑り込ませた。色の付いた銀紙の合間に埋もれたそれは、よほど注意深く観察しない限り一目では気付けないように思われた。
 腕時計の針は、家主が帰宅するであろう時刻を少し過ぎたところだ。
 様々な色が散らばったチョコレートの山から、赤い包みのものをひとつ、手に取る。大きめのキャンディにも見える包装紙を両手で引っ張ってほどけば、磨かれたアンティークのようになめらかなミルクチョコレートが顔を出す。そっとつまんで口の中に放り込むと、食べ慣れたやわらかな甘さが舌の上でゆっくりと溶け出した。
 手土産がひとつ減ったな、などとくだらないことを思いながら、テーブルに広がった色鮮やかな光の山をしばし眺める。何故この部屋の鍵が複製されて俺に渡されるようなことになったのか、何故余りようがない菓子が余るようになって、何故俺はそれを後輩の自宅に上がり込んでまで分けてやろうとしていたのか。未だに凍りきらないその答えの残滓が、ミルクの甘さとないまぜになって緩慢な速度で溶け消えていく。
 唐突に、背後で遠い物音がした。細い金属音、間もなく勢いよく――鍵があく音、それから一拍置いて、薄い扉が軋んで開く音。
 現れた人影の向こうでドアが閉まりきる間際、
「……ただいま」
 静かな低い声が聞こえ、閉じる音に掻き消された。何の意志も感情もなく無造作に捨てられたようなその声が、この部屋の住人たる見知った男の言葉だと認識するのには、若干の時間と勇気を要した。
「あれ? また電気消し忘れ――」
 のんきな声とがさごそ言う音。数歩で部屋を横断してきたその男は、俺の顔を見るなり目を見開いてぱっと笑った。
「カミュ先輩!」
「……邪魔している」
「来てたんだ! えー、言ってくれればよかったのに! 電気ついてるからびっくりしたよー。あっでもちょうどいいかも。ちょっと待ってね、俺さっき……」
「待つのは貴様だ。話の前にまずは上着を脱ぐなり手を洗うなりしてこい」
「あ、うん。ちょっと待っててねー。そこ座ってていいから!」
 持っていた鞄とビニール袋を勢いよく床に放り出すと、一十木は軽やかに踵を返した。俺は静かに溜め息を吐いて、ソファへと腰を下ろす。素直に手洗いうがいをこなしているらしき水音を聞き流しながら、頭の中で先程の帰宅の挨拶をもう一度慎重に再生する。無意識の儀式のような機械的な言葉。返事を期待していないどころか、誰かに聞かれること自体まるで想定されていない声。独り言ですらない。当の本人さえ聞いているとは思えない。考えるほどに自分の眉根が否応なく寄っていくのが分かって、俺はここへ来て何度目なのかも分からない溜め息を吐いた。
「お待たせー!」
 一十木は普段通りの気の抜けた笑顔で、床からビニール袋を拾い上げるとそのままソファへ飛び乗ってきた。目の前のテーブルに広がるカラフルな菓子の山を見渡して、包装紙の反射光をすべて映したかのように瞳が輝く。
「中身はチョコレートだ」
「こんなにいっぱいいいの!? ありがとう!」
 言いながらすでに手近のひとつを開けている。手が早い。
「そうだ! 俺も今日たまたまお菓子買ってきてたんだ~!」
 チョコを頬張りながら手元の白いビニール袋をごそごそ探り、「じゃーん!」一十木はやや大きめの四角いパッケージを取り出した。袋の前面には種々様々の茶色い――チョコレートが所狭しとプリントされている。それから見慣れたコンビニのロゴマーク、チョコレート、バラエティパック、の文字が視認出来たところで、商品名を確認する暇もなくパッケージが斜めに思い切りよく開けられていく。
「いろいろ入ってるみたいなんだけど、俺一人じゃ食べきれないからさ。カミュ先輩と一緒に食べようと思って」
 ひっくり返された大胆な切れ目から、個包装のチョコレートががさがさと落ちてくる。透明フィルムのキューブ型のミルクチョコに、黄色で長方形のクランチチョコ、丸型のチョコクッキー、果てはピンクのいちごチョコまで。形すら雑多なバラエティパックの中身は、すでに広げてあった俺のチョコレートの山を崩し、混ざり合い、カラフルな色の中にさらに色を足しただけだという顔で、最初から同じ袋に入っていたかのようにテーブルの上に溶け込んだ。
「……今日は長居するつもりはないぞ」
 目の前に広がる光景の先を睨むように見下ろしながら、俺はそう絞り出す。降り積もって崩れたこのチョコレートの海の下のどこかに、この部屋の銀色の鍵が置き去りにされている、はずだ。今日の用件はそれで済んでいて、これ以上の用はこの部屋にはもうない。それで間違っていないはずだ。
「えー! カミュ先輩、俺が買ってきたやつ食べてかないの?」
 案の定の反応だ。一十木は食べかけたチョコクッキーに悲しげに視線を落とし、それから無言で一口かじった。さくさくした咀嚼音とともに、いかにももの言いたげな表情が俺に向けられる。
 食べながらしゃべるな、とでも怒られた直後の子供と相対しているような、妙な無言、妙なプレッシャー。
「それは……チョコチップクッキーか」
 自分のしていることが急に馬鹿らしくなってきて、俺は菓子の海から同じパッケージをひとつ拾い上げた。何の工夫もこだわりも感じられない個包装の安っぽいデザイン、薄っぺらいプラ紙。ギザギザした端を引っ張って開けてみると、恐ろしく普遍的でスタンダードなチョコチップクッキーが頭を出す。
「おいしかったよ!」
 数秒で食べ終えたらしい一十木は、ゆるんだ笑みで得意げに言い切った。間髪入れず手前に転がっていた青い包みのチョコを開いて流れるように口に放り込むと、嬉しそうな顔でまた次のターゲットを探しだす。テーブル上をさまようその視線が、瞬きの間に俺の隣の、俺の鞄と上着に向いて、音もなくまた戻される。俺が帰ろうとしないことを確認するかのように、置き去りにされないか確かめる叱られた子供のように、幾度か。
「……いただこう」
 握ったままだったチョコチップクッキーを頬張ると、一十木の視線がこちらへまっすぐ向くのが分かった。
 チョコチップの食感を前面に押し出したような量産型のクッキーは、取り立てて言うほどのこともなく、しかし確かに美味しかった。
 飾りようのない、安易で軽々としたこんな感想を抱くのは、これで何度目なのだろう。一十木の持ってくる菓子は往々にしてこの類いのコンビニやスーパーの商品ばかりで、それは現場や楽屋やこの部屋や、どこでも隣で食べるたびにいつも、この国とこの部屋の、日々と生活の味がする。俺の持参する専門店のスイーツや老舗の和菓子などとはまた違う、俺の知らないこの国の味がする。
「あ、れ? これはチョコ……じゃない。あ、うちの鍵?」
 顔を上げると、この部屋の主がこの部屋の鍵を手のひらに乗せ、不思議そうに首をかしげていた。「鍵はさっき鞄に……あれ、これキーホルダーついてないや」小さく呟いて、クランチチョコをザクザク噛み砕きながら思案気な表情をする。俺は何も言わずに、チョコチップクッキーの最後の欠片を口に入れた。
 咀嚼を終えた一十木は、「あ」不意に目を輝かせ、俺の名前を呼んだ。
「はいこれ。カミュ先輩の」
 躊躇いなく差し出された右手には、この狭い部屋の扉をひらく小さな鍵が握られている。「……ああ、」雑然と日々が混ざり合ったカラフルな菓子の海の上空で、俺はその飾り気のない、安っぽい合鍵を受け取った。
「俺のだな」
 シャツの胸ポケットに滑り込ませると、それは抵抗も違和感もなく、左胸の上に落ち着いた。
おかえりを言えるかどうかはまた別の話
カミュちゃんちが森の中の塔(借家)なのほんとすき
2020/05/23