またねの代わりに

 俺が事務所に帰り着いたのは、待ち合わせ時間のちょうど五分前だった。間に合ったことにほっとしながら事務所のスタッフさんに挨拶をして、今日の報告を兼ねた雑談をして、とりあえず先に仕事の資料と書類を受け取る。念のために明日のスケジュールをもう一度確認してから、俺は封筒に入れられた紙の束をそっと鞄に突っ込んだ。壁にかかった時計に目をやると、待ち合わせの時間を二分くらい過ぎている。スタッフさんにお礼を言って、俺は早足で事務所の休憩スペースのほうへと向かった。
 壁と仕切りで区切られているだけの、そんなに広くはない休憩場所。扉もついていないそのスペースをひょいっと覗き込むと、ソファーに座った誰かがひとり、手元の資料を静かに読んでいるところだった。落ち着いた色のスーツにかかるその長い髪の色に、俺は慌てて姿勢を正す。
「遅れてごめん! カミュ先輩、お疲れさまです!」
 がばっと頭を下げて、上げる。カミュ先輩は二人掛けのソファーの奥のほうに座ったままこっちを向いて、俺を待たせるとはいい度胸だな、と低い声で笑った。
「ごめん! ちゃんと間に合う予定だったんだけど、スタッフさんと話し込んじゃってて」
「まあ構わん。俺も先ほど来たところだ」
 そっかー、と返事をしつつ、俺はとりあえずソファーの手前側にどーんと座る。事務所のソファーは少し古いけれどふかふかで、背もたれに背中をつけた途端なんだか一気に力が抜けた。ずぶずぶとソファーに沈み込みながら右隣を向くと、しかめっ面のカミュ先輩がこっちを睨んでいた。
「貴様、何故向かいではなく隣に座る」
「え~。だって今日朝からずっと仕事で、ゆっくりする時間がぜんぜんなくてさー」
「俺のスペースが狭まるだろうが」
「大丈夫だよ、このソファー大きいし!」
 背もたれの上に頭をのっけて目を閉じる。上を向くと天井の白いライトがまぶた越しにもまぶしくて、視界が残像でチカチカと揺れた。昨日も今日もアルバム関連の仕事がぎっしりで、忙しい一日だった。でも、すごく楽しくて、幸せで、充実した一日でもあった。
「……おい。寝るのは用件を済ませてからにしろ」
 カミュ先輩が隣で溜め息をつく。俺はゆっくり目を開けて、ずるりとソファに座り直した。目の前の長テーブルの上に、小さめの綺麗な紙袋がひとつ乗っている。さっきは気付かなかったけど、なんだろう、カミュ先輩の荷物かな。
「座ったらちょっと気が抜けちゃっただけだよ。眠くはないし、元気!」
「そうか。用件はなんだ」
「え。えっとね、」
 改まって用件はなんだと聞かれると、なんだかちょっと答えづらい。俺はソファの端に放り出していた鞄の紐を引っ張りあげて、膝の上にどんと乗せる。カミュ先輩はいつものように淡々と黙ったまま、観察するような目で俺を見ていた。さっきまで広げてあったはずの資料は、いつの間に片付けたのか、カミュ先輩の手元からすっかりなくなっている。
「もう知ってるかもしれないんだけど、渡したいものがあって」
 言いながら、鞄の奥に入れてある小さな袋をそっと取り出す。絶対になくさなくて、できるだけ潰されない場所をちゃんと探して入れておいたのだ。白くて薄い袋の下から、ぼやけたシルエットがうっすらと透けている。俺は平べったいその袋から慎重に中身を引き出して、カミュ先輩から見て正しい向きになるように回転させてから、もう一度両手で握り直した。さかさまになった自分と目が合って、呼吸がほんのわずかに浅くなる。目を閉じて、開ける。俺は座ったまま体ごとカミュ先輩のほうを向いて、両手でそれを賞状みたいに差し出した。つられて頭もなんとなく下がる。
「これ! 俺のソロベストアルバム!」
 ……返事はない。
 自分の両腕とソファと床とカミュ先輩の膝から下だけが見切れて映る俺の視界。の、上の端から白い右手が伸びてきて、赤いアルバムを軽く握った。惹かれて上げた目線の先で、長い人差し指が赤く透明なケースの端にそえられている。それだけの景色をまばたきの合間にただとらえて、俺は両手を離し、顔を上げた。カミュ先輩は俺のCDのジャケットを、空色の瞳をすがめてじっと見ていた。
「えっと、もらってくれる?」
 青い視線がすっと上がり、俺にまっすぐ向けられる。
「……断る理由もないのでな」
「よかった! はあ~、なんか緊張したー」
 息を吐いて笑うと、体がソファに溶けるように沈み込む。カミュ先輩はCDと俺とを交互に見ながら、眉根を寄せてなんだか面白くなさそうな顔をした。
「改まって呼び出すような用件でもなかったのではないか?」
「えっ」
「これを渡すだけならば、事務所のスタッフにでも預けておけば済んだだろう」
「あー」カミュ先輩から目をそらして、とりあえず空中を見る。これは言われる気がしてた。
「連絡をよこした時に用件を言わなかったのはそれでか」
「はい……」
 しおしおした俺の返事をどう思ったのか、次の言葉は飛んでこなかった。カミュ先輩は無言でもう一度手元に目を落とし、右手で握っていたCDに左手を足す。俺の人生初めてのソロアルバムが、氷のような色の瞳に、表も裏もあらためられていく。透明なフィルムに覆われたまま、まだ封も切られていないCD。カミュ先輩の手元にあるというだけで、それはなんだか俺の手元にある時よりも、濃く鮮やかな赤色に見えた。
「渡すなら、会って渡したかったんだ。忙しい時に来てくれてありがとう」
 三日後には那月と翔の誕生日パーティがあるけれど、カミュ先輩は仕事があって来られない。ぼくもその日はお仕事なんだよねえ、とれいちゃんは仕事帰りの車の中で、俺のアルバムの曲をバックにそう言って残念そうな顔をしていた。事務所やスタジオの廊下で時々すれ違うことはあっても、俺とカミュ先輩が同じ現場で並んで仕事をするような機会は、やっぱりほとんど巡ってはこない。マサやトキヤやれいちゃんから、藍先輩やセシルやレンから、それに制作スタッフさんたちからも、名前を聞くことはそれなりにある。最近ハマってるらしいお菓子の話とか、こないだの収録でされた無茶振りの感想兼文句とか、土壇場で入った変更を完璧にこなしてくれて助かったって話とか、いろいろ。適当につけたテレビでもよく見かけるし、雑誌のスイーツ特集なんかでも急にカミュ先輩の名前が出てきてびっくりしたりすることもある。
「なんか、ひさしぶりだね」
 ジャケットの俺を黙って見つめていたカミュ先輩が、顔を上げて俺を見る。
「そうかもしれんな」
「アルバムの感想、次に会った時に聞かせてくれたら嬉しいな」
 笑いながら言ってみる。冗談だと流されそうにも思えたのに、
「覚えておく」
カミュ先輩は笑うこともなく頷いた。それから、左手で足元に置いてあった黒い革鞄を取り出すと、慣れた手付きでフラップを開けてそのまま鞄の口をひらく。そして、右手に持った俺のソロベストアルバムを、鞄の中をじっと見て、何かを少し確かめてから、優雅な動作でそっと仕舞った。元通りに鞄の口を閉じていく数瞬、カミュ先輩の口元がほんの少しだけゆるんだのを、俺は隣で、直接、俺の目で見た。
「さて、これで用件は済んだか。俺は帰る」
「へ!?」
 カミュ先輩は音もなくソファから立ち上がり、あっという間に俺の目の前を横切っていく。慌ててそっちへ顔を向けると、カミュ先輩の背中は休憩スペースの入り口で急に立ち止まって振り向いた。
「……それは貴様にやる。アルバムの礼だ」
「え、あ、これ?」
 目線をたどって、テーブルの上に置き去りにされた紙袋を指さすと、カミュ先輩は頷いた。
「味は保証する。が、貴様も感想を聞かせろ」
 自信ありげに微笑むと、カミュ先輩は俺の返事も待たずにそのまま立ち去っていった。
 ひとりには広い休憩スペースに、読めない英語のロゴが入ったお洒落な紙袋と、状況を把握できない俺だけが取り残されている。
 無意味に左右を見回してみたけど、事務所のスタッフさんたちの声がパーテーション越しに小さく聞こえてくるだけで、他に誰もやってくる気配はなかった。俺は恐る恐る、テーブルの上の高級そうな紙袋に手を伸ばす。そっと中を覗いてみると、中身は赤いリボンで包装された、どこかのお店のお菓子の箱のようだった。箱は思ったより軽くて、俺は首をかしげながら、綺麗な蝶々結びの端を引っ張ってほどく。目立たないように四方に貼られた透明のテープを箱の紙ごとびっと剥がして、ようやくふたに手をかけた。
「……マカロンだ!」
 赤い。鮮やかな丸い赤色が、箱いっぱいに上品に並んで入っている。それは宝箱に納められた真っ赤な宝石みたいに光って見えて、俺は口を開けたまましばらく立ち尽くしていた。
「…………あ、そっか」
 箱を両手で持ったまま、ソファにすとんと座り直す。いつの間に立ち上がってたんだろう。まばたきしてから抱えた箱の中をもう一度覗き込むと、綺麗に個包装された赤いマカロンのかたちがひとつひとつはっきりと見えた。赤いマカロンは赤い食べ物で、それは俺がこのアルバムの発売前からやっている願掛けと同じで、つまり、たぶん、カミュ先輩は俺の用件なんて最初からわかっていたんだろう。わかっていて、それでも――わかっていたから、会いに来てくれたんだろう。
 宝箱にふたをして、赤いリボンをぎゅっと結ぶ。リボン結びがなぜか縦結びになったけれど、それは気にしないことにした。元通りに袋へ戻して、俺はふかふかのソファから立ち上がる。右手に紙袋、左肩に自分の鞄、これで忘れ物はなし。いつかまた、廊下ですれ違うだけじゃなく、テレビ越しでも誰かのうわさ越しでもなく、ちゃんと会える日が来たら。その日が来たらきっとまた、俺はカミュ先輩の隣に座れる、そんな気がする。
紙袋のロゴはおそらく英語ではないと思うけど突っ込み不在
たぶんこのあと何も考えずに味の感想をLINEしてしまいなあなあになる
2019/11/22